信州大学マンドリンクラブ同窓会

 農学部から大勢の入部

 続く2期生を募集して文理の講堂で歓迎演奏会をしたところ、何故か農学部(岩手県北上出身の菅原君を筆頭に)から大勢の入部がありました。どうもマンドリンに魅せられたというより、舞台の女子部員の色気?に誘われたのではと、今でも思うのですが・・・。

 また、何を間違ったのか(笑い)、医学部から古畑君と城所君が入部。古畑君はノーマルな感じで部の固い雰囲気を和らげてくれたし、城所君は山ちゃんを凌ぐのではないかと思うほどクラブに没頭し、医学部も1年長く在学することに。
 文理からは山田君が入り、2代目の部長や指揮の後釜の候補と期待されました。ギター部門では菅原君の加入で一機にレベルがあがり、彼の「アルハンブラ宮殿」の演奏に魅せられた女性も多かったらしい。とはいえ、合宿はまだ長野大学との合同であったけれど、第2回目の松本の公演も超満員でした。

 昭和41年の第3期も何故か農学部が多く、その勢いで松本公演に続いて第1回の伊那公演を開催しました。松本公演ではマンドラやベース、セロなど長野大学の応援を受け、長野公演には我々の一部が参加するなど交流が活発でした。

 信州大学マンドリンクラブ誕生

 昭和42年、第4期生の時、教養学部が松本に統合されたため、長野での教養部が廃止されました。本日のOB会開催の呼びかけもこの期の仲間です。

 とにかく工学部と教育学部、繊維学部で40~50名の入部があった程で、この期の連中は『行動的』『理論的』でした。「何故存在しない長野大学という名でやるのか」、「何故短期大学生が入るのか、自分たちだけで出来るではないか」などと毎晩飲み会で問い詰められたものです。

 親分肌の庄村さんは卒業し、私は3年付き合ってきた長野の友人から「(長野大学で)一緒にやろうよ」という圧力と誘いもありましたが、この間も山ちゃんは平然として、どちらとも言わず、技術にこだわっていたものです。

 夏の合宿前、山ちゃんと長野へ行って「信州大学一本で行きたいから了承してほしい」と交渉したが決裂。そこでますます独立の決意が固まり、合宿を野辺山の農学部寮で単独実施したのです。
 この年は松本、長野、伊那、上田の4ヶ所で公演を実施しました。今思うとこの4期生の圧するような熱意がなければ信大統一クラブの誕生はなかったと思うし、一人で始めた直後から、山ちゃん、庄村さんに出会い、また2,3期生の出会いがあったから本日があると思います。

 私は心から山ちゃんの功績を皆さんにお伝えすると同時に、良い思い出をご一緒させてくれた後輩の皆さんにも感謝し、ここに改めて山本憲一さんのご冥福をお祈りいたします。