信州大学マンドリンクラブ同窓会

 ギター・マンドリンクラブが発足

 昭和42年7月の学生総会で同好会からクラブに認めてもらい、この頃から山ちゃんが技術部長で、庄村さんが渉外担当、私が部長のような役割で活動がスタートしました。

 当時はマンドリン用の楽譜が少ないので、今は亡き松尾さんという聾唖学校の先生(屋代高校出身)を尋ね楽譜を借りて(コピーやPCなどない時代なので)3人で徹夜して書き写しました。

 松尾さんは我々の憧れの人。どちらかというとプロ級で服装などに気を使わず、いい楽譜があれば、給料を全部使ってしまう、当然結婚などしない(できない?)で、マンドリンひと筋で生き抜いた伝説の人でした。
 教育学部出身ですから本来なら後述の「長野大学マンドリンクラブ」に入るべき人ですが、何故か入らず(退部させられたのかな?)松本市や会社のクラブで教えていました。山ちゃんはかなり松尾さんの刺激と指導を受けていましたね。

 長野大学マンドリンクラブ

 長野市にある信大工学部・教育学部と長野女子短期大学の連合で、「長野大学マンドリンクラブ」という団体が存在していました。長野大学というのは存在しないが、短期大学と合同するので、そのような名前を付けたのでしょう。

 松尾さんの紹介で当クラブと接触したら何と幹部は大半が屋代高校の先輩。一緒にやろうよということになり、野尻湖の合宿に参加しました。総勢100名。我が文理は15名、しかもレベルは大人と子どもの違いです。向こうは教育学部と短大の女子部員が多く華やかでした。しかも技術も高いので、ザ・ピーナッツが歌う「ためいきの出るような~♪・・」の感じでしたね。
 この合宿に刺激されて、我々は発奮したのです。この後松本へ帰ってきてから山ちゃんの部員に向けた特訓が始まりました。

 松本で第一回目の発表会

 秋には恒例として、長野市で長野大学マンドリンクラブの発表会が開催されることを聞き、松本でも開催しようという気運になりました。長野からも20名の応援をおくるという。主催者をどちらにするか揉めたが我々は標題に拘り、「協賛:長野大学マンドリンクラブ」で決着。

 11月の初旬開催を目指し、山ちゃんが技術指導、庄村さんが指揮、私が広告集めをして、全員で松本市民会館を満員にすべく100円のチケット売りを頑張りました。 (第一回は文理と工学部―松本の教養部―の15名がスタートで、当時の写真がアルバムにあるが別荘に仕舞い込んでしまい、今手元にない) 努力の甲斐があり、何と完売して満席になりました。

 松崎先生もこれは信州大学では初めてのことだと褒めてくれたものです。満席にしたので、入場券の余剰金も出てそれで念願のマンドラを購入。当時マンドリンは3千円位、山ちゃんはバイトで貯めた8千円の超高級品を手に入れたことを思い出します。