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                        羽田克己 (昭和42年-1967年-文理15回卒)

haneda  この度有志のOB会が開催され、40数年振りに懐かしい方々にお会いできることを嬉しく思います。また再来年の当クラブ創立50周年をどのようにしようかと思案中の皆さまの参考になればと思い、創設の経過や仲間の思い出などをまとめてみました。

  本来なら山本憲一さん(通称山ちゃん)と一緒に語り合いたいのですが、彼は去る平成15年4月22日に急逝されました。私がこのクラブの言い出しっぺとはいえ、山ちゃんの力がなければ存続できなかった程、彼は私の女房役に徹して、何時も穏やかに、しかも力強く支えてくれたことを思うと、今も残念です・・。

山ちゃんとの出会い

  私は昭和38年(1963)4月 信州大学文理学部に入学し、思誠寮(現在の記念公園の北東隅に3棟)に入寮、入学式までの一安心の間、屋代東高校当時、クラブで覚えたマンドリンで「こんにちは赤ちゃん」を弾いていたら、「いい音色だね、俺も弾きたいなあ」と言ってきた人が山ちゃんでした。

  彼は高校の1年先輩にあたり、高校時代にもクラブの発表会で聴いて弾きたいと思っていたとか。私はどうぞと楽器を貸して多少のご指導をしました。彼は一日中練習するのです。寮は狭いのでいつの間にか評判になり、たまたま寮生だった山ちゃんと同級生の庄村さんがいて、彼はギターを弾けるので3人で遊びながら、会議室を借りて演奏するようになりました。まあ当時他の寮生から非難を受けるようになって校庭の隅に追いやられることになるのですが。


 

 文理音研(音楽研究会)に入部

 当時専有の部屋を有し活躍していたクラブに文理音楽研究会がありました。
 元々は昭和25年に旧制松本高校から2本ペダルのドイツ製ピアノ(ザイラー)が贈られて、これを発端に昭和34年に医学部を含めた「ザイラークラブ」という音楽サークルが誕生して、やがて音研に至ったところです。
 合唱だけでなく、ピアノや管弦楽器もあるので、マンドリンの練習もいいかと相談したら、OKだが合唱団に入ることが前提だと。山ちゃんや庄村さんに相談したら仕方ないではないか、練習場さえ確保できればいいと言うので入れてもらいました。

 ところがここでマンドリンを練習していたら、合唱部にいた先輩の女性(徳永さんや吉原さんー同じ英文科の先輩)が参加してきて、そのうち同級の女性が5人も加わり、更に教養部にいた工学部の蔵田、今井君を初め5,6人が入ってきました。彼らは歌を歌わないため、音研の部長から合唱を選ぶか楽器を選ぶかの選択を迫られる事態に。

 6月頃には15名位になっていたので、有志で相談して、みんなで退部しようということになります。音研のクラブの半分位が辞めたため、後々まで私が引率者として批判されたという話をずっと後で妻から聞きました。(妻は1年後輩で43年に音研に入ったので、私とは学生時代に接触もなく、話もしたことがない。ではなぜ結婚したかは今回の話と関係ないので省略します。)

 松崎一先生にお願い

 だが、イザ退部しても練習場所がなく、どうしようと思案にくれていた折、たまさか屋代高校の信大OB会が開催され、物理学教授の松崎一先生に飲み会でお会いします。その際窮状を訴えると、それではと教授会にかけてくれたが、当時エレキギターが全盛で世の中では暴走族のように嫌われていたので、教授会ではその一派ではないかとの反対もあったとのこと。松崎先生は自らマンドリンを買い練習して、その音色を反対派の教授に示し賛同をえて、200名も入る23番教室を確保してくれました。

 雑談ですが、松崎先生は洒落のわかる明るいご性格で、松高で作家の北杜夫を教えたエピソードなどを面白おかしく話してくれました。
 ある時、試験日に遅刻してきた学生にどうしたのかと尋ねたら「寝坊しました」という。 嘘も方便ではないか、親が急病とか言え、寝坊したと言って追試験はできないぞと言いながらも、後で手を打って卒業させる先生でした。
 今年で御歳94歳。昨年入院先にお見舞いにお伺いしましたが、かなり記憶が薄れたとはいえ、まだご健在です。


 ギター・マンドリンクラブが発足

 昭和42年7月の学生総会で同好会からクラブに認めてもらい、この頃から山ちゃんが技術部長で、庄村さんが渉外担当、私が部長のような役割で活動がスタートしました。

 当時はマンドリン用の楽譜が少ないので、今は亡き松尾さんという聾唖学校の先生(屋代高校出身)を尋ね楽譜を借りて(コピーやPCなどない時代なので)3人で徹夜して書き写しました。

 松尾さんは我々の憧れの人。どちらかというとプロ級で服装などに気を使わず、いい楽譜があれば、給料を全部使ってしまう、当然結婚などしない(できない?)で、マンドリンひと筋で生き抜いた伝説の人でした。
 教育学部出身ですから本来なら後述の「長野大学マンドリンクラブ」に入るべき人ですが、何故か入らず(退部させられたのかな?)松本市や会社のクラブで教えていました。山ちゃんはかなり松尾さんの刺激と指導を受けていましたね。

 長野大学マンドリンクラブ

 長野市にある信大工学部・教育学部と長野女子短期大学の連合で、「長野大学マンドリンクラブ」という団体が存在していました。長野大学というのは存在しないが、短期大学と合同するので、そのような名前を付けたのでしょう。

 松尾さんの紹介で当クラブと接触したら何と幹部は大半が屋代高校の先輩。一緒にやろうよということになり、野尻湖の合宿に参加しました。総勢100名。我が文理は15名、しかもレベルは大人と子どもの違いです。向こうは教育学部と短大の女子部員が多く華やかでした。しかも技術も高いので、ザ・ピーナッツが歌う「ためいきの出るような~♪・・」の感じでしたね。
 この合宿に刺激されて、我々は発奮したのです。この後松本へ帰ってきてから山ちゃんの部員に向けた特訓が始まりました。

 松本で第一回目の発表会

 秋には恒例として、長野市で長野大学マンドリンクラブの発表会が開催されることを聞き、松本でも開催しようという気運になりました。長野からも20名の応援をおくるという。主催者をどちらにするか揉めたが我々は標題に拘り、「協賛:長野大学マンドリンクラブ」で決着。

 11月の初旬開催を目指し、山ちゃんが技術指導、庄村さんが指揮、私が広告集めをして、全員で松本市民会館を満員にすべく100円のチケット売りを頑張りました。 (第一回は文理と工学部―松本の教養部―の15名がスタートで、当時の写真がアルバムにあるが別荘に仕舞い込んでしまい、今手元にない) 努力の甲斐があり、何と完売して満席になりました。

 松崎先生もこれは信州大学では初めてのことだと褒めてくれたものです。満席にしたので、入場券の余剰金も出てそれで念願のマンドラを購入。当時マンドリンは3千円位、山ちゃんはバイトで貯めた8千円の超高級品を手に入れたことを思い出します。


 農学部から大勢の入部

 続く2期生を募集して文理の講堂で歓迎演奏会をしたところ、何故か農学部(岩手県北上出身の菅原君を筆頭に)から大勢の入部がありました。どうもマンドリンに魅せられたというより、舞台の女子部員の色気?に誘われたのではと、今でも思うのですが・・・。

 また、何を間違ったのか(笑い)、医学部から古畑君と城所君が入部。古畑君はノーマルな感じで部の固い雰囲気を和らげてくれたし、城所君は山ちゃんを凌ぐのではないかと思うほどクラブに没頭し、医学部も1年長く在学することに。
 文理からは山田君が入り、2代目の部長や指揮の後釜の候補と期待されました。ギター部門では菅原君の加入で一機にレベルがあがり、彼の「アルハンブラ宮殿」の演奏に魅せられた女性も多かったらしい。とはいえ、合宿はまだ長野大学との合同であったけれど、第2回目の松本の公演も超満員でした。

 昭和41年の第3期も何故か農学部が多く、その勢いで松本公演に続いて第1回の伊那公演を開催しました。松本公演ではマンドラやベース、セロなど長野大学の応援を受け、長野公演には我々の一部が参加するなど交流が活発でした。

 信州大学マンドリンクラブ誕生

 昭和42年、第4期生の時、教養学部が松本に統合されたため、長野での教養部が廃止されました。本日のOB会開催の呼びかけもこの期の仲間です。

 とにかく工学部と教育学部、繊維学部で40~50名の入部があった程で、この期の連中は『行動的』『理論的』でした。「何故存在しない長野大学という名でやるのか」、「何故短期大学生が入るのか、自分たちだけで出来るではないか」などと毎晩飲み会で問い詰められたものです。

 親分肌の庄村さんは卒業し、私は3年付き合ってきた長野の友人から「(長野大学で)一緒にやろうよ」という圧力と誘いもありましたが、この間も山ちゃんは平然として、どちらとも言わず、技術にこだわっていたものです。

 夏の合宿前、山ちゃんと長野へ行って「信州大学一本で行きたいから了承してほしい」と交渉したが決裂。そこでますます独立の決意が固まり、合宿を野辺山の農学部寮で単独実施したのです。
 この年は松本、長野、伊那、上田の4ヶ所で公演を実施しました。今思うとこの4期生の圧するような熱意がなければ信大統一クラブの誕生はなかったと思うし、一人で始めた直後から、山ちゃん、庄村さんに出会い、また2,3期生の出会いがあったから本日があると思います。

 私は心から山ちゃんの功績を皆さんにお伝えすると同時に、良い思い出をご一緒させてくれた後輩の皆さんにも感謝し、ここに改めて山本憲一さんのご冥福をお祈りいたします。


 第50周年の記念行事に向けて

 再来年(平成24年)に迎える50周年をどうしようかと、今年の4月に松本で幹事会を開きました。卒業生も1,000名近いとか。OB会で懐かしい仲間と会うのは面白いことですが、ここまで続いてきたのはOBたちの熱意のもと、現役が頑張ってくれているからでしょう。折角なら現役を支援・交流しつつ、彼らと共通のステージなどをもてれば、わがマンドリンクラブは永遠となり、この先の楽しみが増えますね。

 ここでご参考になるかと思い私学の同窓会について妻から聞いた話をします。
 妻は信大卒業後、早稲田の学生となり、大学院、研究所とすっかり私学の人間ですが、1000以上の巨大な同窓会の細胞はすべてが総長室に1本化されていて、OBが昔話をする場だけでなく最終的には大学の発展を支え、学生の活躍を願って、時には多額の寄附を集める大応援団とのこと。

 彼女は早稲田大学グリークラブ(現役の男声合唱団)の応援をしていますが、コンサートを演出したり、大学の行事に呼んできたり、時には交響楽団への出演を手助けするなど、親しい関係を保ちながら若い学生の歌を楽しんでいます。それは日頃から彼らの演奏会に駆けつけて差し入れをするとか、自宅に招いて宴会をするとか、毎年のマネージャーや指揮者とも交流している成果なのでしょう。
 現役を退くと稲門グリークラブというOB会があり、グリーの100周年行事では、20歳前後の現役から80歳代までのOBが東京のサントリーホールで300人の大合唱をしたという、羨ましい話も聞きました。

 50周年を機に我々も、現役の応援を含めて面白く充実した未来への計画を持てるといいなと思いませんか? 普通のOB会は在学時代の4~6年間の仲間になってしまいますが、現役を応援しながら共通の夢を持てるとしたら、仲間作りも活動も広がりますよね。
 今年の秋の松本公演には、なるべく多くのOBが駆けつけて応援することからはじめ、50周年の記念行事も皆で楽しく考えましょう。

平成22年6月5日
 
※·記憶をたどりながら書いた文章ですが、もし訂正や追加情報など、お気付きの点がありましたら、下記にご連絡いただけると有難く思います。